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2.神社仏閣・史跡
神社・お寺・史跡・他

平尾エリアにある神社仏閣・史跡・他


平尾八幡宮

住所/福岡市平尾3丁目

菅原道真公を祭ってある神社。天満天神又の名を

容見すがたみ天神との言い伝えがある御社です。鎌倉時代には、

住吉宮、櫛田宮、筥崎宮と共に、肩を並べる程の古い天満宮。

(www.jinja.sakura.ne.jp様より一部引用させていただきました)

宇賀神社(旧称:一本木神社)

住所/福岡市中央区大宮


本神社の起源は明らかではないが、当初は田圃の中の小さな祠であったものと思われる。

福岡藩6代藩主黒田継高公の時代の享保17年~18年(1732~33)に藩内は大飢饉で損耗高およそ40石、飢死者7万人、牛馬4千足が死ぬという甚大な被害をこうむった。世に「享保の大飢饉」と称される。この大飢饉後、藩政の建て直しが一段落ついた頃の宝暦10年(1760)、藩主継高公が「風雨順時」「五殻豊穣」を祈る気持ちから、自分の産神である江戸の橋本稲荷にあやかって、新たに神殿・拝殿を造営し「本社蔵棟札」 それ以後、直参・代参を欠かさず続けたと言われる(www.jinja.sakura.ne.jp様より

一部引用させていただきました)

高宮八幡宮

住所/福岡市南区高宮

社史によると、天智天皇(西暦655~661)の御代に磐瀬 (現在の西鉄高宮駅東方に地名が残って居る)の行宮に

居られた時に、神功皇后の縁の地として此処に神さまをお祀りになったと伝えられております (四王寺山の城や水城が築かれた頃)。

今の平和台に在った外賓応対の施設と大宰府との連絡道路に面して居り、更に博多湾を望み、大宰府と那珂郡を

一望できる軍事上重要な位置をなしていることと時代背景を考えますと、国の外難防御祈願の為に創祀されていることが解ります。

後、寛仁年間 (1037年頃)に 岩戸少卿大蔵種直が社殿を造営して武運を祈り代々崇敬しました。また、建久年間(1190年ごろ)原田氏 (糸島郡の高祖城主) の時、当神社を高宮の宮の尾に移し、高宮、平尾、野間の三村の氏神、那珂郡の惣鎮守神としたと伝えます。

当宮の寛永年間(西暦1624年頃)の棟札によりますと、本殿は藩主黒田忠之公の寄進されたもので、

一の鳥居は長政公の寄進であり、拝殿は家老の加藤司書の寄進とのことです。武運祈願の神社として慶長7年(1602年)に神社を古宮の跡である現在地に遷座し、のちに分霊を平尾村と野間村に勧請して氏神としています。

また、天保年間の棟札には、惣産子として高宮村、平尾、野間、若久、屋形原、野多目、和田、老司、塩原、清水、日佐、那珂、竹下、春日、安徳、馬出、堅粕までの17村の名前が書いてありました。

那珂の郡の鎮守、高神様という伝承を裏付けるものです。

明治以降は一村の氏神として祭られるのですが、秋の祭には「宮座」の奉仕がありました。毎年廻り当番で、氏子の家で一切の経費を負担して祭の準備をしたのです。

公式ホームページより引用させていただきました。

  高宮八幡宮公式ホームページ→公式ホームページ



※掲載写真の無断転用等は、固くお断りします。

史跡・他


平尾山荘跡(平尾山荘公園)

住所/福岡市平尾4丁目付近

以下ウィキベディアより

野村 望東尼(のむら もとに、ぼうとうにとも、文化3年9月6日(1806年10月17日) - 慶応3年11月6日(1867年12月1日))は、幕末の女流歌人・勤王家。福岡藩士・浦野重右衛門勝幸の娘。贈正五位。

文政12年(1829年)、福岡藩士・野村新三郎清貫と結婚。

安政6年(1859年)、夫が亡くなり、剃髪して受戒。その後、福岡の南側の山村(現・福岡市中央区平尾)にあった自分の山荘に勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりする。彼女に便宜を図って貰った中には、勤王僧・月照、長州藩士・高杉晋作、熊本藩士・入江八千兵衛、対馬藩士・平田大江、福岡藩士・平野国臣、中村円太、月形洗蔵、早川養敬などがいる。

慶応元年(1865年)6月、福岡藩で、尊攘派弾圧の動きが強くなり、孫の野村助作と共に自宅に幽閉され、10月に姫島(現・福岡県糸島市志摩姫島)へ流された。翌2年(1866年)9月、晋作の指揮により福岡脱藩志士・藤四郎、多田荘蔵らが姫島から脱出の手引きをし、下関の勤皇の豪商・白石正一郎宅に匿われ、後に三田尻(現・山口県防府市の古称)で死去した。

密会場所として提供していた山荘は現在も保存されており、山荘の敷地は平尾山荘公園として整備されている。同公園内には彼女の銅像が設置されている。なお、福岡市中央区赤坂3丁目には生誕地の碑が立っている。

以下福岡市ホームページより

勤王の志士たちを支えた幕末の母

野村望東尼が住んだ平尾山荘

野村望東尼が住んだ平尾山荘

 「ひとすぢに あかき道ゆく 中やどに かしてうれしき やまのあれ庵(いほ)」(『向陵集』)

 平尾山荘に住んだことで知られる野村望東尼(のむらぼうとうに)は、文化3年(1806年)黒田家に仕える浦野重右衛門勝幸の三女・モトとして、現在の赤坂三丁目付近で生まれました。

 美貌で知られたモトは、17歳のときに一度結婚するも離縁。24歳で再び野村新三郎貞貫(さだつら)のもとに後妻として嫁ぎます。

 弘化2年(1845年)、長男の貞則に家督を譲り、夫婦は平尾山荘に移り住みました。2人は詩歌に造詣が深く、薬院の商家に生まれた歌人の大隈言道(ことみち)の門下に入り、平尾の自然に囲まれながら、歌を中心とした生活を楽しんでいました。

 しかし、安政6年(1859年)、夫の貞貫が亡くなります。仏門に入ったモトはその名をもじり、「招月望東尼(しょうげつぼうとうに)」と号するようになります。

 文久元年(1861年)に上京、翌年に帰福した後から勤王の志士たちを密かにかくまい、山荘を密会の場として提供するようになりました。高杉晋作も平尾山荘を訪れた一人です。

 冒頭の歌は彼らを支えようとする望東尼の心境を詠んだものでした。

 福岡藩の勤王派は次々と弾圧されてしまい、望東尼も真冬の慶応元年(1865年)11月に姫島に流されてしまいます。望東尼が60歳のときのことです。

 ところが、翌年9月、高杉の命を受けた30人の志士たちにより、昼間にも関わらず、監視の目を盗んで劇的に脱出したのでした。

 下関に着いた望東尼は慶応3年(1867年)4月、高杉の死を見取ると、山口を経て防府の三田尻に着き、同年11月6日、その地で62歳の生涯を終えました。王政復古が起こり、明治になったのはその翌月のことでした。

 望東尼の慰霊を偲び、毎年11月6日には平尾山荘で望東尼祭が行われています。10時半から1時間、お坊様による読経が行われるほか、梅やぜんざいの販売もしています。



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福岡市文化交流公園 松風園

住所/福岡市中央区平尾3丁目28番

管理事務所TEL/092-524-8264

ひらるオリジナルマップ「スミタスマップ」もありんす!

〈以下公式サイトホームページより

松風園とは、平成19年度に福岡市平尾に開園したお茶室のある新しい公園です。

平尾に残る貴重な緑地を保全し、優れた茶室「松風庵」を再整備し、一般に利用できるようにしたものです。

「松風園」は有料公園施設となっております。

「松風園」は松風庵に和室(広間、小間)、本館に和室(8畳)2間と、露地と野点広場、四阿、駐車場(乗用車9台分)を持っております。

↑ココまで冒頭部分

松風園になる前は、確か元玉屋社長宅だったはず。

当時、私も平尾に越したばかりのときに歩き回っていて、煉瓦造りの立派なお屋敷があるなぁ思っていた場所。

いつの間にか立派な日本庭園になっていた。

ココでは、いろんなイベントも催されていて、一般の方でも参加できるものもありようだ。

入園料がかかるが、抹茶サービス(確か有料)等もあるようなので、庭園を眺めながらの一服も良いかもしれない。

公式サイトはコチラから



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